東洋運勢学会の歴史は、1977年春・三須啓仙師(前東洋運勢学会会長・故人)のもとに、かねてより親交のあった(株)勁文社の故・加納勲社長が、『十二支占術』による暦を出版したいのだがどうにかならないか』と相談をもちかけられたことからスタートしました。
『十二支運勢宝鑑』と名付けられたこの出版物の執筆者を集めるという大義名分の下で、故・三須啓仙師のよびかけに応えた、先代田口二州師(故人)、加藤普品師(故人)、柳下尚範師(故人)、そして浅野八郎師(現日本占術協会会長)が集ってその実現に向けて会合を重ねました。
各師より推薦された執筆者により、1977年秋・最初の『十二支運勢宝鑑』が刊行され、その後、有名占術家名鑑を掲載した、九星占術による『暦』が加わり、2002年4月、(株)勁文社の民事再生の申請(事実上の倒産)まで、四半世紀におよぶ両者の二人三脚による出版活動が続けられました。
毎年安定的な出版活動を行う為に、執筆陣を組織化する必要が生じ、執筆者の推薦者である一門の主宰者が発起人となり、東洋運勢学会が結成されました。1978年錦秋の頃、盛大に挙行された出版記念のパーティーが、東洋運勢学会の発足式となりました。
当初、東洋運勢学会は、創立発起人である5人の代表委員を中心に東京の4つのグループが集い、そこに中京、大阪のグループが加わった6門によって組織されました。
東洋運勢学会の創立発起人である代表委員は、当人一代限りの定めであったため、代表委員の初代・田口二州師、加藤普品師匠が相次いでご逝去された後は、残された代表委員は三須啓仙師、柳下尚範師の二名となり、両師によるツートップ二人三脚の体制が15年以上続きましたが、1998年に柳下尚範師がご逝去され、創立発起人は故・三須啓仙代表一人となりました。
二十一世紀を目前に控え、今後の東洋運勢学会のあるべき姿を模索する中で、その第一歩として『協調と交流』というスローガンを掲げ、会の独立性、独自性を堅持しつつ、他会派との交流をはかり、多くの仲間と共に歩む未来を選択し、新たな方向性に向けた準備が始まりました。
1999年9月9日、それまでの方針を変更して、日本占術協会・浅野八郎会長の要請に応え、世界占いの日を共催。大成功をおさめた『世界占いの日・制定記念の集い』は、現在の当会が掲げるスローガンである『協調と交流』の路線による活動の記念すべきスタート台となりました。
2000年には東京本部・大阪本部の二本部制がスタートし、大幅な組織改編によって二本部・八門体制となりました。2000年京都に於いて開催された、東洋運勢学会・大阪本部設立記念大会は、東洋運勢学会・日本占術協会・(社)日本易学連合会というわが国の代表的な運勢学術の団体の会長・幹部が一同に会し、東洋運勢学会史上はもとより、日本の運勢学界史上、初の快挙となる画期的な大会となりました。
2002年春に創立以来の出版活動のパートナーであった(株)勁文社の事実上の倒産という大問題に直面する中で、東洋運勢学会を離脱するグループが出るなどして八門体制が崩れましたが、幾多の紆余曲折を経て、大胆な組織改革が行われました。
2003年春を新生出発の時と位置付けて、故・三須啓仙会長の下に新たな役員を選出し、副会長・顧問・相談役・理事・参与等の新体制に移行することが決定しました。従来の二本部制は堅持し、源真里副会長が関東本部、易八大副会長が関西本部を担当して、2本柱で故・三須会長を支える形になりました。
2007年は東洋運勢学会にとって激動の年となりました。
8月に山口莊令副会長、10月に易副会長、そして12月には最後に残った創立発起人の故・三須会長と相次いでご逝去され、東洋運勢学会はその存続すら危うい創立以来最大の危機を迎えました。
翌年2月、故・三須会長の後を継いで三須啓仙を襲名した源副会長が、東洋運勢学会の新会長に就任し、 東洋運勢学会の新たな歴史がスタートしました。
これまでの門制から支部制に移行し、東海支部、大阪支部が相次いで設立され新たな船出となりました。その後、滋賀支部、京都支部も順次設立され、新たに専務理事・常任理事の役職を設け支部長と共に会長を支える態勢が強化されました。本部と支部の絆を強め、会員相互の交流を活発にする試みも多く採り入れられ、少しずつ変革を加えながら次第に新たな姿が整ってきています。
2016年4月1日一般財団法人東洋運勢学会として登記完了
今後も東洋運勢学会は、会員一同が力を合わせて、『運勢学』に対する社会の要請に応えるために、東洋運勢学会憲章を順守し、精一杯努力する所存です。